なぜ多くの健康法で呼吸が重視されるのか
呼吸は本来、無意識に行われている生命活動の一つです。しかしその一方で、私たちは呼吸を意識的に変えることもできます。この「意識と無意識の両方にまたがる性質」こそが、呼吸の大きな特徴です。だからこそ呼吸は、自律神経に直接働きかけるための入り口となるため、自律神経のコントロールを目的として、多くの健康法で呼吸が重視されています。
呼吸の役割
呼吸は「酸素を取り込むためのもの」と考えられがちですが、実際にはそれ以上に重要な、以下に示すような役割を担っています。
内臓と循環を促す「横隔膜のポンプ作用」
呼吸の中心である横隔膜は、単なる呼吸筋ではありません。
血流とリンパの流れを助ける
深い呼吸によって横隔膜が上下すると、腹圧が変化し、
- 静脈血の還流
- リンパの循環
が促進されます。これは、いわば体内のポンプを補助する働きです。
消化機能をサポートする
横隔膜の動きは、胃や腸にも物理的な刺激を与えます。その結果、次のような効果が期待できます。
- 腸のぜん動運動の促進
- 消化・吸収のサポート
脳と自律神経を整える
呼吸は、神経系と非常に強く結びついています。
呼吸は「体の状態」を脳に伝えるシグナル
呼吸の状態は、脳に対して現在のコンディションを伝えます。
- 乱れた呼吸 → ストレス状態のサイン
- 安定した呼吸 → 安心・安全のサイン
つまり、呼吸を整えることは、脳の状態を整えることにもつながります。
自律神経への影響(非常に重要)
ゆっくりした呼吸は、副交感神経を優位にします。これにより、
- リラックス状態になる
- 心拍が安定する
- ストレス耐性が上がる
といった変化が起こります。
感情と集中力の安定
呼吸を整えることで、
- 不安や緊張に関わる脳の働きが落ち着く
- 思考や判断を担う機能が働きやすくなる
結果として、集中力とメンタルの安定が同時に得られます。

武術と呼吸
健康法としてよく知られている太極拳ですが、元は中国武術の流派の一つです。武術というのは、戦いの場で発展したものです。
相手が、自分に危害を加えようとしているとき、生命の危機を感じて交感神経優位の状態が作られ、心拍数を上げ、筋肉に血液を送り、集中力を高められます。いわゆる戦闘態勢に入った状態で、生物としての本能です。ただし交感神経優位が過度に生じると、過緊張状態となり、次のような弊害があります。
動作の阻害
交感神経が過剰になった状態では、身体が過度に緊張してしまい、動作に不要な緊張は動きを阻害することがあります。
視野の狭窄
極度の緊張(過剰な交感神経優位)状態になると、脳は「闘争か逃走か」の原始的なモードに切り替わり、視野が極端に狭くなる「トンネルビジョン」に陥ります。
過緊張対策
戦闘の極限状態では、過緊張による弊害は致命的になりうるため、様々な武道武術において、呼吸による緊張状態のコントロールを取り入れており、稽古を通じて呼吸と動作が自然に整った状態を作ることを目指します。
スポーツの試合などでも同じことが言われていますし、仕事などで、大勢の前でプレゼンテーションを行うといった機会でも、過度の緊張で声が震えたりといったことを経験された方もいらっしゃるでしょう。そうした際に、深呼吸でリラックスするといったアドバイスを受けることも多く、実際に実行されている方もいらっしゃるでしょう。
では、太極拳においてはどのように考えるのでしょうか。
太極拳と呼吸
太極拳においても、過緊張は良しとしません。不要な力みをなくし、放鬆(ファンソン)状態を維持することが要求されます。
放鬆(ファンソン)については「放鬆と脱力は違う」の記事を参照してください。
動作と呼吸を合わせるとは
太極拳で呼吸についてよく耳にするのが、手を上げる、または胴体に寄せる動作では、息を吸って、手を下げる、または伸ばす動作では息を吐くというものです。しかしながら、一般的に太極拳はゆっくりとした速度で動作を行っており、ゆっくりと手を上げ下げしている間、吸って吐くのひと呼吸だけを守ろうとすると、息が続かない人も多いと思います。また、無理にひと呼吸で動作を終えようとすると、自然な呼吸ではなくなり、逆に力みが生じる結果になりやすいです。特に、初心者のうちで、動作も覚えきっていない状態で、さらに呼吸を合わせるということに意識を向けることは、かなり難度が高く、体に余計な緊張を生みやすいです。したがって、一つの動作の途中で息が続かなくても気にせずに、自分にとって自然な呼吸で構わないのです。
動作と呼吸はやがて勝手に合ってくる
太極拳では、吸いたい時に吸って、吐きたいときに吐いていれば、やがて動作と呼吸が合ってきます。
「太極は万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずるとする。」とされています。太極拳は、陰陽が渾然一体となってバランスの取れた状態を維持することを重視します。
陰陽はあらゆる事象に見出せるものであり、ここでは呼吸を陰、動作を陽の一例として捉えると、呼吸でリラックス状態を作ろうとするのではなく、呼吸(陰)と動作(陽)のバランスをとることで、太極になろうとするのが、他の呼吸にまつわる健康法と大きく異なる部分です。
放鬆(ファンソン)状態を維持し、姿勢などが整ってくれば、深い呼吸がしやすくなることにも気づいてくると思います。

まとめ
では、冒頭の問いに戻りましょう。
太極拳で呼吸を気にする必要はあるのでしょうか。答えは「気にしなくてよい」です。ただし、それは呼吸がどうでもいいということではありません。放鬆状態を保ち、動作が身体に馴染んでくれば、呼吸は自然に整います。意識して合わせようとするのではなく、整った身体に呼吸がついてくる——それが太極拳の考え方です。
呼吸を「合わせなければならないもの」と考えると、それ自体が緊張の原因になります。まずは自然な呼吸のまま、動作に身を委ねてください。稽古を重ねるうちに、ある日ふと、呼吸と動作が一つになっている瞬間に気づくことがあります。それが、太極拳の面白さの一つです。
呼吸と動作が自然に整った身体を、ぜひ雙鯉會の稽古で体験してみてください。


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